昭和44年10月12日 特別奉修委員



 10月の月次祭の後に、色々話し合いがありましてから。朝の2時頃まで色々お話をしたんですけれども。その時に文男さんが私の事をこういう風に言う。秋永先生がもう親先生、貴方ばっかりはもう右ち言よるかと思や、すぐ左ちいつも心が変わるという訳なんですね。もう先生がこうち言いなさるけんで、もうその積りで信心しよりゃもう明日は今度は左の反対な事を言うちからち言うちから、喧しゅう言うておりましたら文男さんが、それは仕様はなかち。
 その君子その豹変するという言葉があると。親先生えらいからね、もうそのわがええごつ言いなさるとじゃち言うてまあ色々分からん、その事やらこの事を申しておりましたが本当にあの私が確かにあの、昨日は右と言いよって今日は左という。もう一つの事柄のを段々進めて行きよる内にでも、右といういき方で行きよるかと思うと左せにゃいけんと言うて、私が言う様な事が何時もありますけれども。
 けれども私の場合そのそれがあの何て言うんでしょうかね。神様がそういう風に働いて下さると言うかね、次の実証というのが成程先生が右ち言いなさったら右、左ち言いなさったら左。はあもうちんちろまいして右と思いよりゃもう左ち言いなさるち、こう言わずにですねそのその通りして行きよれば、おかげ頂く事だけは間違いないとですからね。もう先生あげん言いなさるけんもうこげな思い方で決め取った所に、と折角思い方を決めとるのに、又違う事を言いなさると言うて。
 あの言うたらもう本当私でも皆さんが嫌になるだろうと、こう思いますけどね。けれども、あのそこんところは矢張りあの、文男さんじゃないけれどもやっぱり偉いから、はっはは君子豹変するだとこう言うた。色々その人を見るでもその人の良かとこだけを見て行けと言った様な事をよく申しますけれどね。中々良か所だけがめっかからずに悪か所ばっかりがめっかかるのが普通ですけれど。今日の今朝のご理解から頂いておりますと、そういう考え方が出けるのが、人間じゃと仰る。
 例えばその、おかげ頂いて行けれるような、考え方が出けるのが人間、他の者には出けん。だから難しかってもです、右と言われたら右、もう左と言われても、左に思えれる精進が信心であって。それが出けるのは、もう人間だけだと教祖は仰っておられる。それが出けるのが人間だと、こう仰る。だからその本当にもう、わがよかごつ言うちからと言うたら、もう腹の立つけれども。
 けれどもあれがやはり、御神意だとこう思えれるのが人間だと。だから是を私だけではなくてこの合・・・誰の場合でも同じ事が、言えるというのじゃないでしょうかね。そこんところを私は神ながらとして頂いたら、その人があのそこからおかげを受けられる。貴方昨日あげん言いよってから、今日はこげん言うちから、もうどんこんそげなこつすんならでけん、というのじゃなくてですね。そこにはこの自由自在な心の頂き方、使い方と言った様なもの。
 それが出来るのが人間。けれどもそれも矢張り、稽古なしには出けません。やっぱり稽古が必要であってね。けどもそれが出けるのは人間だと今日。特にそこんとこへ強調して頂きます様に。それは出来るのは人間だから。もうそげなこつ言うなら知らんと言うのじゃなくて、やっぱ、そこんところが出ける様に、私は精進する事が信心だ。又はそれが人間の値打ちだと。他の者じゃ出けん、人間だけしか出けんのですから。そういうおかげを頂かなきゃならんと思うですね。
   どうぞ。